湘南アフタケア協会の成り立ちから現在までHistory
昭和25年、創立者川崎満治氏は結核治癒後の療養と体位・体力増進の必要性を感じ、生活保護法の更生施設として湘南アフタケア協会をスタートさせました。社会復帰を目指すため訓練部を設置し、電気部・印刷部・洗濯部・洋裁部などで職業訓練を行いました。
こうした事業努力の末、昭和27年には社会福祉法人の認可を受け、定員120名の事業(神奈川後保護施設)に拡大しました。
その後、結核は予防対策や新薬の開発など、医療技術の進歩により沈静化しましたが、施設利用者が生きる意欲を持ち続けるためには、行政からの保障を受け安定した生活を送ることが必要であるとの考えから、各方面に粘り強く働きかけを続けました。その結果、昭和33年には結核回復者の社会復帰施設が社会福祉事業法の第一種社会福祉事業となり、昭和42年の身体障害者福祉法改正時には、内部障害者が身体障害者の対象になりました。
昭和45年には老齢結核者や重度障害者の入所に対応するため、重度身体障害者更生施設(重度神奈川後保護施設)を新設しました。
現在では社会情勢の変化から、訓練部はその役割を運営のための収入源から機能回復訓練へと姿を変えています。また、生きるための心の豊かさを提供するという新しい発想で、手芸・パソコンなど、趣味的な色彩のプログラムも積極的に取り入れています。
創立者 故・川崎満治氏
大正6年9月5日生
昭和14年3月 官立山梨高等工業学校電気工学科 卒業
昭和14年4月 満州電信電話株式会社 技術研究所職員
昭和15年2月 現役入隊の為、休職
昭和16年11月 満期除隊即日召集任官
昭和19年7月 召集解除(予備役陸軍中尉 外地勤務なし)
昭和19年11月 肺浸潤のため、入院療養
昭和25年2月 湘南アフタケア協会設立に従事
年表
-
昭和25年2月
湘南アフタケア協会久里浜施設設置(定員30名)
昭和25年6月 湘南アフタケア協会横須賀施設設置(定員40名)
昭和26年5月 財団法人認可・ 生活保護法の更生施設認可(定員70名)
昭和27年5月 社会福祉法人に変更認可・ 久里浜施設を横須賀施設に統合し、神奈川後保護施設と改める(定員変更70名→120名)
昭和29年1月 診療所設置
昭和42年8月 身体障害者福祉法の改正により、心臓・呼吸器の内部障害者更生施設となる
昭和45年7月 重度神奈川後保護施設(定員50名)新設(重度身体障害者更生施設の基準を適用)・ 5号館、職業訓練館、健伸寮の新築
昭和55年3月 重度内部障害者リハビリセンター設置
昭和60年4月 神奈川後保護施設の定員変更(120名→100名)
平成3年4月 重度神奈川後保護施設居住棟新築・ 重度神奈川後保護施設に短期入所(ショートステイ)4床を付設・ 重度神奈川後保護施設の定員変更(50名→70名)・ 神奈川後保護施設の定員変更(100名→80名)
平成5年4月 重度神奈川後保護施設の定員変更(70名→60名)
平成9年12月 神奈川後保護施設の定員変更(80名→60名)
平成15年4月 重度神奈川後保護施設が施設種別変更(身体障害者福祉法の改正による重度身体障害者更生援護施設の施設種別廃止)により、肢体不自由者更生施設となる
*施設種別の変更に伴い、短期入所(ショートステイ)床を閉鎖
平成22年4月 障害者自立支援法における新体系の事業へ移行(施設種別・指定障害者支援施設)
*神奈川後保護施設(入所定員40名・自立訓練6名、生活介護34名)重度神奈川後保護施設(入所定員60名・生活介護60名)
平成26年2月 神奈川後保護施設を建替 神奈川後保護施設の愛称を「悠悠」(ゆうゆう)、重度神奈川後保護施設の愛称を「花桃」(はなもも)と定める
平成26年4月 神奈川後保護施設の自立訓練事業を廃止するとともに生活介護の定員を34名→40名に変更
平成26年5月 神奈川後保護施設にて短期入所(ショートステイ)事業開始(定員4名・併設型)
湘南アフタケア協会相談支援事業所設置
令和元年10月 神奈川後保護施設にて短期入所(ショートステイ)事業開始(空床型)